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大阪城梅林と由来 片桐市正且元との関係も [ブログ]






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大阪城にある「大阪城梅林」に行って来ました。
大阪府立北野高校が100周年記念業の一環として同窓会から寄贈されたのが始まりの梅林です。



晴れていて比較的暖かいこともあり多くの人がいました。




大阪に生まれてずっと暮らしているのに私は知りませんでした。
だから人の多さに驚いちゃいました。

思っていたより有名な場所なんでしょうか?


梅の種類はメモし忘れてしまいましたが数多くの品種がありました。

梅だよりという大阪城梅林を運営している団体しているブログには33品種、1055本が植えられているそうです。
大阪城梅林について






























梅林は「市正曲輪」という場所にあります。
豊臣時代に秀頼の後見人であった片桐市正(いちのかみ)且元の屋敷のあった場所。

江戸時代には城内警備に当たる大番職を助勢する加番職のための三つの屋敷(加番小屋)が南から順に立ち並んでいた場所でした。
しかし戊申戦争の折りに全て焼失しており残っていません。

明治期から太平洋戦争終結時までは全てが陸軍関連の施設に。

戦後は梅林が造成されるまで上等とは言えない運動場に整備。
主に大阪府警機動隊の訓練場として使われていたということです。

常に何らかの重要な場所として使われていたんですね。


屋敷があった片桐市正且元は真田丸にも出演。

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桃の木を律儀に世話したり仲裁役として奔走し豊臣に尽くします。
それでも秀吉の死後、段々ないがしろにされ最後には家康の罠にハマってしまう。
そんな悲運の人物として描かれました。

歴史上は賤ヶ岳の七本槍のひとりとして数えられる猛将。

近江国(今の滋賀県)出身で浅井氏に変わって長浜城主及び北近江3郡の領主となった羽柴秀吉に若くして仕官。
この9年後に賤ヶ岳の七本槍と呼ばれる理由になった賤ヶ岳の闘いで一番槍の功を認められます。

そして豊臣秀吉が天下をとった後、道作奉行としての宿泊地や街道整備などの兵站に関わっています。
また検地奉行に携わっています。

きっと武闘派というより穏健で真面目な人だったのでしょう。

慶長3年(1598年)3月15日に秀頼の補佐役5名の1人として指名され、大坂城番の城詰めとして近侍します。
おそらくこの辺りで市正曲輪ができたのではないでしょうか。

本当にすぐそこに大阪城が見えましたし豊臣家に近いことがそこからもわかります。


歴史と真田丸の片桐を思うと上品な梅が少し哀しく思えて来る不思議。

でも特別高い仕切りがあるわけでもなく本当に近くで写真を撮ることができました。
巡回する警備員もいなかったように見えました(見かけなかっただけかもしれないけれど)。

到着するまでは大変ですが梅林の中にはローソンもあって休憩できます。
お菓子と飲み物を飲みながら梅鑑賞というのもいいかもしれません。







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